17日午前5時46分、阪神・淡路大震災から20年となりました。
早朝の神戸市、東遊園地には午前7時現在昨年の3倍近い1万4千人が訪れたとのことです(市発表)。やはり人ひとりが大人になるような「20年」という歳月を「節目」と捉えた人々が多かったようです。
しかしながら、20年前の震災は間違いなく「歴史化」しているのではないでしょうか。私自身当時0歳半で、震災当日両親らと神戸入りしていたそうですが全く記憶がありません。
このような「震災を知らない」世代、あるいは「震災を経験していない」人々にとって、20年前の震災はただ「かつてあったこと」であり「歴史の一部」としてしか認識できないでいることも十分ありえます。
92年前の関東大震災は、多くの人々にとって完全に「歴史化」しています。2011年の3月11日までは、毎年1月17日にメディアが特集する震災に関する報道を「今年もまたやってるよ。鬱陶しいな」としか受け流せなかった東京(だけではないでしょうけど…)の人々も多かったことでしょう。逆に阪神・淡路から20年が経ってしまった関西では「震災や災害」をさほど気にかけない人もいるかもしれません。そのような人たちにとってそれぞれの震災は「歴史」として、「自分には関係ないもの」として捉えている節がどこかにあるのです。
年月が経つにつれて、記憶は遠くのものとなり、そもそも経験した人の数自体が少なくなります。そう考えれば、災害が「歴史化」していくのは致し方ないといえるかもしれません。しかしたとえ「歴史」となってしまっても、私たちはその歴史から学ばなければなりません。「歴史は繰り返す」と言いますが、逆に言えば「歴史から学べば、過ちを繰り返さないで済む」とできないでしょうか。歴史から学び、災害に備えることを怠らなければ、再び多くの人が悲しみに暮れるという「過ち」は避けられるのではないでしょうか。
ビスマルクの有名な言葉に「愚者は(自分自身の)経験に学び、賢者は(他者からの)歴史に学ぶ」というものがあります。そう「天災は忘れたころにやって来る」のです。(阪田裕介)
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