2017年8月25日未明、ミャンマー西部のラカイン州にて、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)と自称するグループがおよそ30ヶ所の治安施設を襲撃し、警官ら10人以上が死亡した。翌日の朝日新聞朝刊にはこうある。
「同地区では昨年、軍の掃討作戦でイスラム教徒ロヒンギャ住民への人権侵害報告が相次いだ。今回も軍の反撃で住民への迫害が懸念される」
この懸念は現実となる。治安部隊などによるロヒンギャへの反撃は苛烈を極め、襲撃と関係のない一般民衆にまで迫害が及んだ。ロヒンギャの村では虐殺が発生し、若い女性は性的暴行を受けた。「国境なき医師団」が同年12月に発表した報告によると衝突以後、ロヒンギャの死者は少なくとも6700人にのぼる。家を焼かれた人々は10日以上歩き、国境のナフ河を渡り隣国のバングラデシュへ難民として逃れた。国連の統計ではこの衝突以後、70万人を超えるロヒンギャが難民となった。
旅の始まり
3月の夏の太陽が照りつける。こめかみの汗と土埃。遠く陽炎が揺れていた。肩に食い込むバックを背負い直し、額を上げる。
「この道で合っているのだろうか」
ホテルのオーナーの話ではこの長く乾いた道の先に目的の村があった。彼は、しぶしぶと言った感じで村の場所を教えてくれたが「あそこは危険なところだから、絶対に行ってはならない」と付言した。ヤンゴンでラカイン州行きのバスチケットを購入する時にも同じ警告を受けた。
ミャンマーに旅立つ半年前の8月、ロヒンギャと現地治安部隊との衝突に端を発して、およそ70万人のロヒンギャが隣国のバングラデシュに難民として逃れた。私は新聞報道をきっかけにこの問題を知り、2つの理由で関心を抱いた。
①「ビルマの竪琴」に象徴される温和な仏教徒の国というミャンマーのイメージと、ロヒンギャ問題の暴力性が余りにもかけ離れていたこと
②「ロヒンギャ」という聞き慣れない名前の集団が、どのような人々で、なぜ迫害を受けているのか興味を持ったことである。
しかし日本で報道される情報は断片的で、ロヒンギャに関する書籍や論文もほとんど存在せず、実態や問題の背景が見えなかった。
「報道の向こう側に行きたい。この国で何が起こっているのかを自分の目で確かめたい」
その思いと同時に、いやおうなく自分の存在を考えさせられるニュースの現場に身を置くことで、社会との関わり方を規定できるのではないかという期待があった。これから自分が目指す「何か」を見つけられるような気がした。
ミャンマー最大の都市・ヤンゴンから丸2日、バスに揺られラカイン州にやってきた。ロヒンギャを巡る旅の始まりは、同州の古都・ミャウー(Mrauk U)だった。ミャウーは15―18世紀にかけて存在したアラカン王国の首都であり、現在でもパゴダ(仏塔)が往時の余影のように立ち並んでいた。
「こんなに美しく静かな町が存在していたのだ」
もし私がただの観光客であったのなら、甘美な思い出だけを持ち帰っていただろう。この美しい町の郊外に「東南アジア最大の人道危機」にさらされるロヒンギャの村があった。 (鶴)
今日よりロヒンギャ問題を追った長編ルポの掲載を始めます。期間は未定ですが、週1回の更新を予定しています。「東南アジア最大の人道危機」といわれるロヒンギャ問題の現状を取材し、その展望を考えます。ご意見やご感想は下記のコメント欄にお寄せください。
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村田 (水曜日, 13 2月 2019 22:10)
これからどんな事が始まるのか、どんな世界が広がって行くのか、期待感が高まる「旅の始まり」だ。
藍上陸 (土曜日, 27 7月 2019 23:42)
ロヒンギャ問題について調べていたところ、こちらのサイトを知りました。
記事の質の高さにおどろき、一気に最新の更新分まで読み通してしまいました。
続きも期待しておりますが、連載はとても大変だと思いますので、どうかご無理をなさらぬよう、ご自分のペースで更新していって頂ければと思います。
一読者より。
robocat (土曜日, 31 8月 2019 20:31)
そもそも、旅の始まりは第二次世界大戦では?
英国がミャンマーを植民地として取り込んで、
今のロヒンギャを送りこんだのが発端。
第二次世界大戦で日本とミャンマーが組んで、
イギリスとロヒンギヤが組み戦闘が行われた。
結果は日本がミャンマーを開放した。
元々、ミャンマーは仏教の国なのに、
イスラム経のロヒンギヤが居るのが問題。
本来は現パキスタンに帰る支援を英国がするべき。
更に問題は不正規に越境すると、ロヒンギャに成る。
パキスタンは貧困国なのでどんどん不正越境がある。
雪だるま式に増加すればミャンマーも切れるだろうに。