イスラム教徒ロヒンギャの問題で揺れるミャンマー。政府軍などによる迫害で70万人ものロヒンギャが隣国のバングラデシュに逃れた。ミャンマー政府は国際社会からの非難によって帰還政策を打ち出したが、その道筋はいまだ不透明である。
この国で一体、何が起きているのか。
本紙記者がロヒンギャの村を取材した。
ミャンマー西北部に位置する町・ミャウー(Mrauk U)。15世紀から18世紀にかけて繁栄したアラカン王国の首都で、美しいパゴダ(仏塔)が歴史のなごりを感じさせる。この古都から南におよそ5キロ。東南アジア最大の人道危機にさらされているロヒンギャの暮らす村があった。
村を案内してくれた30代のムンムンさん(危害が加わる恐れがあるため仮名)は妻と3人の子ども(長女8才、長男5才、次男2才)との5人暮らしである。普段は村の学校の英語教師をしているが、村を訪れる外国人に対してガイドのようなこともしている。ムンムンさんが教鞭を取っている学校を見せてもらった。机や椅子のないがらんとしたスペースに正方形の黒板だけが壁からつるされていた。普段は5才から12才までの子ども達が学んでいるそうだが、訪れた時期(3月下旬)は春期休暇中であった。
この村には高校などの上級学校が存在しない。卒業後は町の学校に行くのかと尋ねると、ムンムンさんはかぶりを振って答えた。
「僕たちはこの村から出ることができないのだ」
ロヒンギャの人々の行動はミャンマー政府によって、厳しく制限されている。仏教徒の暮らす町へ行くことは不可能で、教育を受けたくても受けられない現実がある。外部から入ってくる物資も限られているので、生活はほとんど自給自足である。また医療不足も深刻で、村には薬局のようなところはあるが病院はない。行動が制限されているので、罹患しても満足な治療を受けられない。
村には少なくとも3か所のモスクがあった。その中でも一番、古いモスクは14世紀に造られたという。大部分は改築されているようで真偽の判断はできなかった。ムンムンさんはモスクが14世紀から存在することを強調して言った。
「私はこの村で生まれた。両親も、祖父母もずっとここで暮らしてきたのだ」
ミャンマー政府はロヒンギャをバングラデシュから来た「不法移民」だとしている。仏教徒がおよそ9割を占めるミャンマーにおいて、イスラム教徒のロヒンギャは少数派である。
「ロヒンギャ」が発生した時期ははっきりとは分かっていない。
ただアラカン王国時代(15-18C)にはムスリムに融和的な王の元、仏教徒とムスリムが共存していたという。その後、イギリス統治時代にベンガル地方(現バングラデシュ)から大量のベンガル人(ロヒンギャ)がラカイン地方に流入し、仏教徒との対立が発生したとされる。第2次世界大戦中には日本の支援する仏教徒とイギリスの支援するムスリムの間で代理戦争が行われた。現代に至って、なお対立は先鋭化している。
昨年8月の衝突以後、政府治安部隊の掃討作戦によってロヒンギャ側に多数の死者が発生した。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、迫害によって67万人を超えるロヒンギャが隣国のバングラデシュに逃れたという。
昨年11月にはミャンマー政府とバングラデシュ政府の間でロヒンギャ難民の帰還合意がなされたが、帰還は進んでいない。また仮に帰還したとしてもロヒンギャが安全に生活をする環境は整っていない。
仏教徒の間にはロヒンギャに反発する意見も根強くある。ある仏教徒の女性は記者が「ロヒンギャ」という言葉を発した瞬間に「彼らのことをロヒンギャと言わないで」と激昂した。(仏教徒はロヒンギャに対して「ムスリム」や「ベンガル」といった呼称を用いる)
ホステルではロヒンギャの村の場所を尋ねると「危険だから行かないで」と止められた。
仏教徒がロヒンギャを恐れることにも理由がある。そもそも昨年8月の一連の衝突の発端はロヒンギャの武装組織である「アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)」が複数の治安部隊の施設を襲撃したことにあると考えられている。治安部隊はARSAの行動に過剰反応し、一般民衆にまで報復措置として危害が加えられた。
ロヒンギャ問題は善悪というディコトミーで考えることは出来ない。宗教的な問題だけでなく、歴史認識の齟齬や感情的な対立も存在している。仏教徒とロヒンギャの間に存在する心理的な溝を埋めることは容易ではない。
東アジア支局(バンコク)=鶴
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【ロヒンギャ問題】
ミャンマー西北部・ラカイン州に住むムスリムの人々をロヒンギャという。仏教徒が約9割を占めるミャンマーにおいて迫害に苦しめられており、昨年8月の衝突以後には70万人ほどのロヒンギャが難民としてバングラデシュに逃れた。
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