第3回までのあらすじ
ミャンマー政府はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュに当たる地域)から流入した不法移民とみなしている。その一方でロヒンギャは「自分たちはミャンマーで長年暮らしてきた民族であり、ミャンマー国民である」と主張する。
ミャンマー人仏教徒とロヒンギャの間で主張が対立する原因にはロヒンギャの複雑な歴史があった。ビルマ現代史を専門とする上智大学の根本敬教授はロヒンギャとは「『4つの層』から構成されたベンガル系ムスリムである」と説明する。(第3回「ロヒンギャの4つの層―その歴史―」)
ミャンマー人のロヒンギャに関するイメージは1971年以降に流入した「4つ目の層」の人々である。そのために「ロヒンギャは移民であり、歴史もなく民族としては認められない」というのがミャンマー人仏教徒の一般的認識であった。
第1回 「旅の始まり」はこちら
第2回 「ロヒンギャとの出会い」はこちら
根本教授の説明を踏まえた上で当事者の主張を見ていく。この問題において当事者となるのはミャンマー人仏教徒(特にラカイン人)とロヒンギャである。初めにラカイン人の主張を見ていく。ラカイン州出身のザーミンカングさん(70)は民主化運動のかどで1989年に日本へ亡命した。来日後もアラカン民族評議会のメンバーとして、民族自決権と民族間での平等な取扱いを求めて活動している。
ザーミンカングさんが取材場所に指定したのは東京駅近くの商業施設のロビーだった。待ち合わせ時間の5分前に老紳士は姿を現して「こんにちは」と日本語で挨拶を交わした。日本語は得意ではないそうで、ここからは英語での取材となった。
「まずロヒンギャは民族ではなくベンガル人だ。それはラカイン族だけでなく、他の民族にとってもそう。1824年に英国とビルマの間で戦争(第一次英緬戦争)が起こり、その結果としてラカインは英国に編入された。今の政府はこの前年までにビルマ(ミャンマー)に居住していた人々を土着の民族としているが、ロヒンギャと自称するグループは1823年以後に流入した。だからロヒンギャはミャンマーの民族ではない。」
私の出鼻をくじくかのようにザーミンカングさんは「ロヒンギャは民族でない」と言い切った。テーブルの上で指を組む彼の厳しい顔つきは挨拶をした時の柔和なそれから一変していた。「so」と少し間を置いた上で私は質問を投げた。
「ロヒンギャにはアラカン王国の領内に居住していたムスリムの末裔も含まれるといわれていますが、そのことに関してはどう思いますか?」
ザーミンカングさんは「違う」と首を振った。
「それは嘘だ。アラカン王国はベンガルの一部を支配していたから確かにムスリム住民もいた。しかしその末裔はカマン民族(ラカイン州南部に住むムスリム。ロヒンギャと同じムスリムであるが土着の民族と認められている)になった。※1 ロヒンギャの『長い歴史がある』という話は嘘である。彼らは虚構であり、歴史的に正しくない。」
こう話して一息をついた。
ロビーのスピーカーからはバイオリン演奏の明る気なクラシックが流れていた。周囲を見渡してみると、スーツ姿の男性がコンビニ袋から取りだしたサンドウィッチを食べたり、食品店街のチラシを手にしたマダムがランチの店選びをしたりしていた。
ここで私は単純な疑問をぶつけてみた。
「なぜロヒンギャとの間で対立が発生するのでしょうか」
「それは彼らがミャンマーに同化しようとしないから。郷にいっては郷に従えということ。ロヒンギャは私たちのルールではなくイスラーム法に従う。モスクでは宗教指導者が対立を扇動している。イスラームは土地や自治を求め、世界中で問題を起こしている。私たちは自衛しなければならない。それが国家的利益というものである。君が日本を守るように、僕たちも国を守るのだ」
私はある人物から「穏健中道派」の政治活動家としてザーミンカングさんを紹介された。彼の意見はラカイン人のかなりの部分の共通認識であるのだろう。そうならば、将来的にロヒンギャとの共生は可能であるのか。それを尋ねるとザーミンカングさんは「イエス」と答えた。
「かつて僕たちはロヒンギャと並んで暮らしていた。僕たちの側には何の問題もない。問題はロヒンギャの側にある。1942年、マウンドーでは30%を超える仏教徒がムスリムによって殺害された。※2 それでも僕たちは平和な仏教徒であり許すことができる。もちろんラカイン人としてはロヒンギャがホームランド(ベンガル)に帰ることが望ましい。それでもラカインに住むのなら、まずロヒンギャという名乗りを止めなければならない。そして真実の歴史を語らなければならない。民族としてロヒンギャを認めるつもりはない。」
ザーミンカングさんの携帯が鳴って「そろそろ仕事だから行きますね」と席を立った。初めの柔和な表情に戻っていた。コンビニエンスストアで働いているという。異国でほとんど言葉も話せず苦労したのであろう。その辛苦が深い皺に刻まれているように感じられた。
「日本に帰化されたのですか?」
「いいえ。日本では2つの国籍を持てないので。いつかミャンマーに帰りたいです。今は大使がテインセイン軍事政権下で任命された人だから帰りません。日本で暮らすということも、私にとっては1つの政治活動なのです。」
ザーミンカングさんもまた祖国を追われた1人なのだ。そう考えると暗鬱な気持ちになった。
来週はザーミンカングさん(ラカイン人)の主張に対するロヒンギャの反論を掲載します。両論併記ということではありませんが、両者の主張の相違点を掘りさげロヒンギャ問題の原因を考えることが大切であると考えております。
※1 「アラカン王国内のムスリムが全てカマン民族になったという主張について前出の根本教授は「アラカン王国がチッタゴンなどを支配地域に含んでいた時代は『イスラーム教徒が人口の3,4割を占めていた』といわれている。それがみんなカマンになったということは考えにくい」と話す。
※2 「1942年、マウンドーで30%を超える仏教徒住民がムスリムによって殺害された」ということについて根本氏は「規模についてはラカイン人側の誇張があると考えられるが、英国の行政文書にも登場する歴史的事実である。この事件後はラカイン南部で少数派のムスリムへの復讐が発生し、ラカイン北西部でも仏教徒(軍)によるモスク破壊が行われ、対立が深刻化した」と説明する。また事件の背景には「アジア太平洋戦争において、日本がラカインで仏教徒の一部を、英国がムスリムの一部を武装化させ感情的対立を煽り、両国の代理戦争となったことがある」と指摘する。
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南狸 (火曜日, 09 2月 2021 09:21)
※1の根本教授の説明には、論理の飛躍があると思う。
当時のムスリム人口とカマン族の人口を比較して議論するのであれば、チッタゴンを含む現バングラディシュ域を含むラカイン王国全域でのムスリムの割合ではなく、現ラカイン州域でのムスリム人口と比較すべきだと考えます。
南狸 (火曜日, 09 2月 2021 09:46)
コメントをきちんと打ち込むのは慣れないと難しいですね。
最初にプライバシーポリシーにチェックを入れ忘れたので警告が出ましたので、チェックを入れて投稿したら前の分も掲載されていました。
二重投稿失礼しました。
ということで、私見の追加ですが、私もカマン族がラカインの宮廷に仕えていたムスリムの末裔の全てであるというのは少し難しいかなと判断しています。
理由はカマン族の生業です。
カマン族は主として農業に従事していると聞いています。
ミャンマーの王国(や植民地政府)に仕えていたムスリムの末裔と思われるヤンゴンムスリムやマンダレームスリムは都市内で商業などに従事することが多く、農業にはあまり多く従事していないのではないかと思います。
ラカイン王国がコンパウン朝に滅ぼされたため都市のムスリムは農村に逃れて農業を始めたとも考えられますが、やはり都市に残っていた人もいたのじゃないかと想像します。
ロヒンギャを名乗る人たちの中には都市で働いていた人も含まれていますので、このような人々のルーツがアラカン王国に仕えたムスリムである可能性は否定できないと思いますが、それが現在ロヒンギャを名乗る人々の中でどのくらいの割合になるかといえば、かなり少ないだろうとは思います。