【連載】ロヒンギャへの道 第3回 「ロヒンギャの4つの層ーその歴史ー」

第2回までのあらすじ

 新聞報道をきっかけにロヒンギャ問題に関心を抱いた私はミャンマー西部に住むロヒンギャの村を訪ねた。この村でロヒンギャは移動や教育の自由を制限され、自給自足の生活を強いられていた。

第1回 「旅の始まり」はこちら

第2回 「ロヒンギャとの出会い」はこちら

 ミャンマー政府はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュに当たる地域)から流入した不法移民とみなしている。1982年に施行した改正国籍法では土着135民族からロヒンギャを排除した。

 その一方で前回、村をガイドしてくれたロヒンギャのムンムンさんはこう訴えかけた。

「僕はこの村で生まれた。両親も、祖父母もずっとここで暮らしてきた。それなのに何故、不法移民の扱いを受けないといけないんだ」

 ムンムンさんの言葉には「ロヒンギャは長年、ミャンマーで暮らしてきた民族であり、ミャンマー国民である」という意味合いが含まれている。

 「ロヒンギャ」の定義すら、ミャンマー人仏教徒とロヒンギャの間では共有されていない。両者の主張に齟齬が生じる理由は何であるのか。それを解き明かすには、ロヒンギャの歴史に目を向ける必要があるだろう。

ビルマ研究者の根本敬氏(上智大学の研究室にて)
ビルマ研究者の根本敬氏(上智大学の研究室にて)

 ビルマ(ミャンマー)に関して多数の著書がある上智大学の根本敬教授は「ロヒンギャとは4つの層から成立したベンガル系ムスリムです」と説明する。

 その「第1の層」は、現在のラカイン州に当たる地域を中心に15世紀前半から18世紀後半にかけて隆盛を誇ったアラカン王国の領内に居住していたムスリムである。

「ロヒンギャの起源となる民族について、資料からもっとも古く遡れるのはアラカン王国が栄えた時代です。アラカン王国は仏教王朝でありましたが、ムスリムに寛容な王の下、多数派の仏教徒とともに少数派のムスリムも暮らしていました」

 一時は現在のバングラデシュ南東部・チッタゴンにまで支配地域を広げたアラカン王国であるが、1785年にビルマ王国コンバウン朝の侵攻を受けて滅亡し、アラカン王国内に居住していたムスリムの多くはベンガル地域に逃れる。

 

 しかし、1824年に英国とビルマ王国の間で勃発した第一次英緬戦争でビルマが敗れ、1826年にラカイン地域が英領インド帝国に編入されると、ベンガル地域からラカイン地域にムスリムが戻り、また新たに入植する。この時期から定住したムスリムが「第2の層」である。英国統治後はインドとビルマの国境が開かれ、大量のベンガル系ムスリムがラカイン地域に入植。このことで人口バランスが激変し、ベンガル系ムスリムとラカイン人仏教徒との軋轢が本格化した。

 その後、アジア太平洋戦争を経て1948年にビルマは独立するが、この混乱の中で東パキスタン(現バングラデシュ)の食料不足に苦しむベンガル系ムスリムがラカインに流入する。これが「第3の層」である。

 この頃、ラカイン地域のムスリムが「ロヒンギャ」という名乗りを始めたと考えられている。ロヒンギャは源流をアラカン王国期まで遡ることができるが、民族としての創造は新しい。

 ラカイン州と国境を接する東パキスタンは西パキスタンとの3度の戦争を経て、1971年にバングラデシュとして独立する。この戦争の際にもバングラデシュからラカインにムスリムが流入した。これがロヒンギャの「第4の層」となる。

「ミャンマー人のロヒンギャに対するイメージは第4の層の人々です。つまり1971年以降に来たベンガル移民というイメージが強くあって、それゆえに歴史のない移民(ロヒンギャ)を民族としては認めないと考えています。」

 現在はベンガル系移民としてミャンマー国内で不法移民の扱いを受けるロヒンギャであるが、1948年のビルマ独立以後、14年間ほどは自国民として認められていた。ビルマ独立後の議会には2名のロヒンギャ出身議員が存在し、またロヒンギャという民族名を用いて国営ラジオで短波放送を行うことも認められていた。

「独立初期は良い意味でロヒンギャを別枠で統治し、安全を守ろうとしていました」

ミャンマー西部に住むロヒンギャの子どもたち
ミャンマー西部に住むロヒンギャの子どもたち

 しかし、1962年にネウィン率いる国軍がクーデターを起こし軍事政権が発足するとロヒンギャを巡る状況は一気に悪化する。

「軍事政権の発足後、ビルマ民族を中心とした一元的な中央集権体制が作られたことで、ロヒンギャを含めたインド系の追い出しが始まりました」 

 1982年に制定された改正国籍法では国内に135民族が存在するとされたが、ロヒンギャはこれに含まれず土着民族ではないとされた。改正国籍法は1823年(第一次英緬戦争勃発の前年)より前から現在のミャンマー連邦領土内に居住している人々を土着民族・正規国民と認めている。それ以後に流入した人々の子孫は個別審査で「準国民」ないしは「帰化国民」という正規国民より下のランクで国民として認定することになった。

 ロヒンギャは土着民族というカテゴリーから排除された以上、準国民か帰化国民と認定されなければならないが、そのための証明も非常に困難であった。改正国籍法が制定された時点で現在まで続く、ロヒンギャに対する「排除の論理」が確立されたといえる。

 

 根本教授が述べるように、ロヒンギャの歴史は非常に複雑であり、ロヒンギャ問題を宗教問題と単純化することはできない。

 それでは当事者であるラカイン人とロヒンギャとではどういった点で歴史認識が異なるのか。また心情的にロヒンギャ問題をどう捉えているのか。次回はそれぞれの民族活動家へのインタビューを基にロヒンギャ問題の原因を考える。

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コメント: 1
  • #1

    南狸 (火曜日, 09 2月 2021 09:29)

    「ミャンマー人のロヒンギャに対するイメージは第4の層の人々」というのは事実だろうか。
    仏教徒過激派が提示するベンガリの残虐行為が第二次世界大戦末期から独立期のムスリムの行為であること、さらには現ミャンマー憲法が認める民族の要件を1825年以前からミャンマーに住んでいることとしていることから、第4の層が流入した1971年ではなく、第4層だけではなく、第2層、第3層が意識されており、特に残虐行為を行った第3層への認識が強いのではないかと考えますがいかがでしょうか。