【連載】ロヒンギャへの道 第6回 「第三者として思うこと」

あらすじ

「報道されないロヒンギャ問題の現場に行きたい」

 その思いからミャンマー西部のラカイン州を目指した。ミャンマー最大の都市であるヤンゴンからバスに揺られて丸2日。たどり着いたラカイン州の古都・ミャウーは、アラカン王国期のパゴダ(仏塔)が立ち並び、外国人向けの高級ホテルがうやうやしく看板を掲げる観光地だった。この観光地の郊外に人道危機にさらされる「ロヒンギャ」の村があった。(第2回 「ロヒンギャとの出会い」はこちら

第6回から連載は再びミャンマーへ。この国でのロヒンギャの現状を取材します。

 

 

 ロヒンギャの村の近くには枝先の広がった菩提樹のような大木があって、木陰では薪売りの老人が小休憩をとっていた。大木のそばにはクロード・モネの「積みわら」みたく干し草が積まれていた。干し草を食べる牛は大便をばらまきながら、のらりくらりと歩いていた。

 のどかな村だった。彼らが民族的な悲劇の上にあることを忘れてしまうくらいに。

 自由な日本で育った私の目に、この村の状況は異常な人権侵害のように映った。移動の自由が制限され、外界との接触も絶たれている。インターネットの接続もできず、ほとんど自給自足の生活を余儀なくされていた。

 村人がどれほど生活の中で、自分たちの置かれている状況を意識しているのか外国人である私には分からない。この村にはびこる貧困や医療・教育の不足に対しても、長年にわたる差別の中で諦観に似たようなものがあるのかもしれない。

 日本に帰れば安全で快適な生活が保障されている私は、ロヒンギャ問題の主体者になることができない。ロヒンギャの抱える悩みや感情に「共感」することは可能でも「同感」することは不可能である。「寄り添う」という言葉は耳当たりが良いが、軽々しく口にするのはためらいがあるし、おこがましいとも思う。私の立場は絶対的に観察者であった。

 それでも率直な感情として「特定の民族を隔離すること」への違和感はあった。ロヒンギャを監視するために立てられた簡易の警察署とロヒンギャの子どもの笑顔。対極のイメージが頭の中をスクランブルすると、疼痛のようなものが胸に去来する。

 ガイドのムンムンさんが私を食事に誘った。親戚が営んでいるという小さな飲食店でカレーを食べた。店の前では男たちが竹を編んで、何かを忙しそうに作っていた。

「あれは結婚式の舞台だよ。明日、この村の少女と少年が結婚するのだ」

 祝宴に向けて汗を流す人々の顔は晴れやかだった。食事を終えると、キンマを勧められた。キンマとは東南アジアの嗜好品である。キンマという植物の葉に石灰を塗って、砕いたビンロウを包む。それを噛むと、渋みが口いっぱいに広がってその後に石灰の甘さが来る。唾液が真っ赤になる。

 この村には病院がなかった。「病気になったらどうするのか?」とムンムンさんに尋ねると、医者を紹介してくれた。診療所は普通の民家で医療機器は1つもなく、医者はTシャツを着ていた。「少し待っておけ」と言うのでぬるいソーダ水を飲みながら待っていると、白装束に着替えた医者が杖を片手に戻ってきた。

 ムンムンさんの通訳によると、一種の呪術医のようなもので杖を媒介して大地の力で病気を治すのだという。この呪術で病気が治癒した人の写真を見せながら、いかにこの呪術医が優れているのかをムンムンさんは強調した。

 2度目に村を訪れた時、移動販売がやって来て店を開いていた。女性向けの衣服やレイバンのコピー品を売る店など10店舗近くあった。その中で子どもたちが夢中になっていたのは風船割りだった。お小遣いを握りしめて自分の順番を待っている。友達が矢を投じる様を凝視し、風船が割れると歓声が起こる。その姿は日本の縁日に似ていた。

 この一瞬の思い出に子どもたちはいつか懐旧の情を覚えるのだろう。しかし子どもたちの将来に何があるというのか。国籍もミャンマーに永住できる保証もなく、行動の自由さえ制限される。虐げられ差別されて生きる。どうしても釈然としない思いが残った。(鶴)

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第7回 「偶然の出会いが旅を」