あらすじ
新聞報道でミャンマー西部に住むイスラム教徒・ロヒンギャが迫害されていることを知った私は「何が起こっているのか、報道の現場を見たい」と思い、2018年3月にロヒンギャの住むラカイン州にあるミャウーという町にやってきた。この町の郊外にロヒンギャはひっそりと暮らしていた。(第2回 ロヒンギャとの出会い)彼らの生活を取材した私は次の目的地として州都であるシットウェに向かうことにした。
首府の朝は早い。街の中心部にある時計台が5時を示すと一斉に人々が動き出す。この街はかすかに潮の匂いがする。港に向かってみると帰港した漁船から市場へと釣果が運ばれていた。魚を獲るのは男の仕事で、水揚げされた魚を売るのは女の仕事だった。市場に生臭さが充満する頃にやっと空が白くなる。
私はアラカン王国の古都ミャウーから船で4時間ほどかけてラカイン州の州都であるシットウェにやってきた。いうなれば京都から東京にやってきたようなものだった。この街はかつてアキャブと呼ばれアジア太平洋戦争時には、日本軍と英国軍が2度にわたって(1942-1943年と1944年)激戦を繰り広げた。※1
ベンガル湾に面した静かな港町で、一州の首都というのには心もとないくらいだった。「なかなか良いところではないか」というのが第一印象であった。だが次第にこの街に不気味さを覚えるようになる。
その兆候はこの街に着いた日にあった。ホテルで荷をほどき、街中を散策していると銃を携えた警察官が目につく。あるいは異常なまでに警察車両が街を巡回している。
ある建物からはベンガル系の男性20人ほどが手錠で繋がれてトラックに乗せられていた。一様に表情は暗かった。トラックは西へと走り去った。地域住民(ラカイン人)によると建物は裁判所で「一部のベンガリーは彼らの起こした問題で逮捕される必要がある」※2 と述べていた。
街中にはモスクがあったが、それは残骸のごとく苔や蔓がまとわりつき人気は消えていた。
水に浮かぶ油のように、日常の中に異質なモノが浮遊していた。その不気味さとしか形容のできない感情の正体を私はだんだんと見ることになる。
ミャウーの郊外にあるロヒンギャの村で出会った山本くん(第7回 偶然の出会いが旅を)とは街の中心部のレストランで落ち合った。山本くんは数日前からシットウェに滞在していてこの街の状況に通じていた。ひとしきり近況を話し合った後で山本くんは声を潜めた。
「ところで収容所は見た?」
山本くんが収容所というのはロヒンギャが隔離されている一区画のことを示していた。2012年、ロヒンギャによるラカイン人女性の殺害事件が発生し、これを契機にラカイン人による大規模なロヒンギャへの復讐が起こった。シットウェでは事件の後、街中のモスクは破壊されロヒンギャ住民は郊外に逃れたがその一部は街中に残っていた。
「いえ、まだ。どこにあるのか分からなくて」
「そうか。すぐ近くにあるのだよ」と山本くんはシットウェに来てから毎晩食べているというチャーハンをかきこんで言った。
「飯食ったらさ、少し行ってみようよ」
山本くんに先導されて薄暮の街を進んでいくと、メインストリートから北に5分ほど歩いたところに警察のポストが立っていた。立ち入りを制限する看板と鉄製の柵があって、その向こう側にロヒンギャの暮らす地域があった。
カメラを懐から出そうとすると、山本くんが、警察ポストから一挙手を凝視する警察官に目配せした。
「不用意に出したら駄目だよ。彼らに変な誤解をもたれないようにしないと」
ミャウー郊外の村のようには、部外者がロヒンギャの地域に入ることはできなかった。常時、ポストに立つ5人の警察官を欺くことは不可能に思えた。
ロヒンギャの住む地域は街の中心部から南北に伸びる路地の内の一本に面していた。そしてロヒンギャはこの路地から出ることを許されず外界から隔離されていた。およそ1キロの路地の中にすべての生活があった。
ロヒンギャは陸の孤島に閉じ込められていた。この現状を「収容所」や「ゲットー」という言葉で表す人がいる。かつての私は「いささか大げさではないか」と思っていた。目撃したことでその意見は変わった。日常の中に、ここまで明白に「抑圧」があることに驚きを禁じえなかった。そしてこの人権侵害に対して現地住民は違和感を覚えず普通に生活をしていることが、ないしは黙認することで現状の肯定に加担していることが、外国人である私にとって不気味だった。
次回以降ではこれらの異常事態がどのように日常へと変貌したのかを、地域住民や柵の中に住むロヒンギャへの取材を通して、明らかにしていきたい。(鶴)
※1 アジア太平洋戦争時、シットウェ(アキャブ)は英領インド帝国の攻略といった意味で重要な意味を持っていた。戦略的な重要性を戦記作家の高木俊朗氏は「戦死―インパール牽制作戦」の中で以下のように述べている。
「この島(アキャブ)の平らなことが飛行場に適しており、当時、九本の滑走路が使われていた。もし英軍がこの飛行場を占領すれば、ビルマの中部南部はその戦闘機の資金の攻撃範囲になる。(中略)アキャブはまた、アラカン山系の西側の、ベンガル湾に開けた、ビルマの大きな港である。これを基地とすれば、ビルマに対する水陸両用作戦ばかりでなく、マレー半島、アンダマン=ニコバル諸島への上陸作戦が容易になる」 ()は記者が加えた。
このように戦略的に重要なシットウェ(アキャブ)での敗北は日本軍にとってビルマ戦線での分水嶺となり、インパール作戦を経て敗北への道を進むことになる。
※2 ミャンマー人仏教徒はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュ全土にあたる)から来た人という意味でベンガリーと呼ぶことが多い。
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