「若者の政治的無関心」が嘆かれる中、若者はどう政治に関わっていくべきか。社会運動などを専門に研究している本学産業社会学部の富永京子准教授に話を聞いた。
(聞き手=鶴)
特定の世代に限ったことではないですが、若者は政治のハードルをすごく高く設定しているように思います。特に「投票によってなんらかの利害が生じる当事者でなければ、政治に関わってはいけない」という意識が強いです。当事者と言っても、その場その時の狭い利害でしかないこともあるし、誰でも政治に関わって良いのですが。でも臆する気持ちは分かります。私の専門は社会運動ですが、例えばデモに行ったら、インターネット上で揶揄されたり、まわりから「意識高い系」に見られたりするかもという懸念もあるでしょう。多くの人は就職活動をするでしょうから、そこで政治活動を理由に落とされるという不安もあるかもしれません。そういう中で「関心があるなら声を上げてみなよ」というのは、すでにある程度安定した職業や生活基盤を築いている大人の自由に基づいた、ある種の特権的な発言に響くだろうなとも感じます。
日本では「自分の利害に基づいて声を上げること」が特別になっています。多分政治というのも特別で「なにか大きいことで、自分が介入する余地がない」というか「自分なんかが介入するものではない」と感じているかもしれません。例えば、「もっと偉い人が関わったり、もっとかわいそうな人を救うのが政治だ」と思っているのでしょう。
大学に行けないことも、行けたとして高い授業料を払わなくてはいけないことも「自分が悪い」と感じてしまう。いわゆる「自己責任」化してしまっています。政治という、大きくて特別なもの前では自分なんかちっぽけだと思うのかもしれないけれど、政治や社会を利用して「自分のことを大切にしてほしい」とも感じるところです。
「小さな集団から、意見の交換を」
声を上げることをためらう理由には、自分と他人の利害が異なることも大きいです。多様性はもちろん担保されるべきだけど、逆にそれによって、人を傷つけないよう口を閉ざしてしまっているところもあります。自分の利害に基づいて声を上げると他人を傷つける可能性もありますよね。例えば、ゼミの合宿なんかがその例だと思っていて「○○の先進事例を見たいから海外に行きたい」という学生がいたとします。ただ「あまり経済的に余裕がないから近場で済ませたい」という人もいるでしょう。そういう場合、他人の状況がわからなくて、そう簡単に「海外に行きたい!」とか「うちはお金なくて……」と言い出せないのが実情ではないでしょうか。
同じ大学の同じゼミという、一見同質性が高く見える場所でも所得や期待が全く異なっていて、それが地域や組織においても起きている。 他人と利害は衝突しても良いし、その中で自分たちのコミュニティを作っていくのがおそらく政治なのだけど、日本人は利害の衝突に慣れていません。とはいえ、いきなり声を上げろ、主張同士を戦わせろというのも「無理ゲー」なので、ゼミのように、丁寧に議論を重ねられる小さな範囲から「こうしてみたい」という社会の話をして、意見を交わし合うことが大切ではないでしょうか。
若者が政治に関心を抱いていないということは絶対にありません。むしろ関心を持ちたがっているのはよく分かります。一方で政治に対して正解があると思っている風に見受けられます。「中立でいたい」という心理でしょうか。そもそも、ライフスタイルもキャリアパスも多様で、「ふつう」の人はいない社会だから、偏りを気にすることはないのですが。 政治に「正解がある」と感じていることと関連するのかもしれませんが、政治に対して真面目に関わらなきゃいけないという認識があることも、ハードルの高い一因なのかもしれません。音楽家で社会運動家の三宅洋平さんが、2016年に音楽と演説を融合する選挙フェスをしましたが、そういうのも可能性としてありなのかな、と思うことはあります。楽しいかどうかは、政治に対して真摯に関わっているかとは別の変数ですから、政治に対して「真面目」だけを目指す必要はありません。そして政治はそのコミュニティにいる人々、全員を包摂するシステムなので、誰でも政治に関わって良いはずです。
「政治に真面目に関わっていない私が投票するより、棄権した方が良いかも」という気持ちになるのかもしれません。政治に関わる難しさやハードルを打破する試みはいくつもあります。若者中心の政治活動は、参加のハードルを下げようとしています。例えば2015年に安保法制改定への抗議行動をおこなったSEALDsは、デモを「日常化」しようしていましたし、「デモ=危険・怖い」というイメージから離れようとも挑戦しました。彼らは同時に、問題をわかりやすく伝えるための動画なども作成していた。でもそうした活動も、デモという表象を見て「真面目じゃない」「対案を出せ」と批判されるところに、社会運動に対する世の中の目線の厳しさ、冷たさがあります。
選挙に行くことは大切です。やはり「人々が自分たちのことを決めるのは大事だ」と思うので、若者にも投票に行ってほしいです。シルバーデモクラシーという言葉は少し使い古されているかもしれませんが、行かなかったら利害が反映されません。
「投票そのものに正解はない」
私自身は20代の前半まで投票に行っていませんでした。近い人が地方自治体の議員だったのですが、選挙で落選したところを目の当たりにして、投票が人の生活を変えると思うと怖くなりました。でもある選挙の時に、在日外国人の知り合いに「自分は投票権が無いから」と言われ、「同じ大学という空間にいたのに、政治に参与できるかどうかという条件すら違うのか、それに気づかなかったのか」と愕然としました。権利を行使できない人がいる中で、自分のセンシティブさが何になるのだろうと。権利があるなら行使した方が良いです。お説教っぽくなりますが、今の私たちの権利は参政権をめぐる過去の運動で掴み取られたものでもあるし、行使しないと無くなってしまう可能性だってあります。
ある議員が選挙に出馬しようとする若い人に対して、「政治を変えたいという気持ちだけで決断するのではなくて、自分の生活やキャリアを考慮しながら決めてほしい」と言っていました。「政治家の任期は、たとえ一期だとしても4年ないし6年。でもその短い期間で、その後の人生は大きく変わってしまう」と。有権者にとっても、そうした要素は多少であれ存在すると思います。過度に選択のコスト、投票のコストがかかって、生活を阻害してしまうようであれば「投票しなくても良い」と考えるのも手だし、考えた過程、迷った過程そのものが政治に関わることでもあるでしょう。ただ、繰り返しになりますが、「投票そのものがなにか正解のあるものだ」とハードルの高いものだと考える必要はありません。人は間違うし、利害も変わります。
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